とらドラの記事をにほんブログ村で探す ネタバレ
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†:本文。![]() 龍司と大河が、弱い勇気を補い合う為に二人が力を会わせるという考えに好感
しかも1話のタイトル『虎と龍』
と ![]() 自分の事を上手く表現できずに回りに誤解を生んでいる事、 其れを覆せない自分に対して大河は苛々している。 そして自分の勝手な都合で子供を振り回す親を持つ大河。 上手く相互コミュニケーションが出来ない家庭環境にあるからこそ、大河は人一倍、他人との関係性を求め自分に素直になりたかった。 同じように自己主張が下手なせいで周りに誤解を生んできた龍司は大河の不器用な願いに自分を重ね合わせ協力する事を決意する。この決意の為に1話つかうというのは実に丁寧。 ![]() さらに2話にして北村君に大河が振られる場面。 直接表現を使わずフォローを考えて遠まわしに言う、彼の人間性が把握できるシーン。 後にこの時は彼自身が他に思い人が居る為、大河には明確に断りを入れていたという配慮が判る。 振られても大河は諦めず再チャレンジを決意。その最大の理由が龍司が横で支えているから。 某一部の作品なら、龍司に乗り換えてしまうシーン。 しかも終盤にやるアクション。 人の心模様はそんな昨日明日で切り替わるような単純なものではないというシーン。 背景に様々な理由があればある程、諦めはつかないもの。実に丁寧なシーンでした。 ![]() だが完成されている1・2話だからこそ、後に違和感を残していく事になってしまう。 つまり1・2話で作品として完結しているのだ。 その後の描写は、大河と高須の物語アフターといっても過言ではない。物語というものは主題を描写したらそこで完結してしまう。この後の「とらドラ」と、1・2話の「とらドラ」は殆ど別モノといっていい。 ![]() 川島は?父親との物語は重要、複雑な恋愛模様の結末は? 川島の物語は川島のテーマであり、父親の設定がそれだけ重要なら1巻に値する1・2話で切り捨てたりしない、あくまで背景設定なのだ。複雑な恋愛模様は、とらドラという長いスパンの物語の持続につかわれる大道具にすぎない。次々と展開される恋愛模様がリアリティあるともいえるかもしれないが、初回のテーマとは違うベクトルになっている。初回は周囲に作られた自分と本当の自分による葛藤と、自己変革としての告白だが、アフターは友達関係の現状維持と恋愛による崩壊のジレンマに移行している。これは1・2話とらドラと似て非なる別次元のとらドラアフターなのだ。 ![]() 確かに根底には『今を変える一歩』というモノが共通しているが、方向性が違う為、別作品となっている。根底が同じでも作品としてベクトルの違うテーマを描く場合、同じキャラクターを使用していると、前のベクトルからの様々な蛇足が生まれる。とらドラアフターのテーマでは、大河や高須の「周囲の評価」「家族関係の確執」背景設定は全て蛇足になっている。むしろアフターは凡庸なテーマであるので全員、より普通の設定でもいいくらいだ。 ![]() だが逆に考えれば、それがライトノベル、或いは漫画的小説の強みともいえる。普通の様々なリアリティを要求されてしまう完結した小説や物語づくりでは、こうした理由から、一つの起点からの広がりが許されない。物語に不要な装置はなるべく省いていかなければならない。 漫画・ライトノベル的な作りは、受け手も作り手も無意識にその制約を自由化している節がある。 ![]() こうした作り方はとらドラのように「物語」としてのリアリティと完結はおろそかになりがち。 だが、其処に生きているキャラクター達は、多面性や、複雑な思考変化を持ち、「物語」の敷いた一つの筋道に捉われない事が可能である。ひいては作者やテーマの縛りを越えられる自由性を持つ。 ![]() 漫画・ライトノベルは、「とらドラ」のように、ある一点だけを見ると非常に良くできているが、全体を俯瞰すると、とても歪な出来上がりのものがある。だがその歪さは、本来の人間の人生に近いのと言えるのでは無いだろうか。人間の人生は必ずしも洗練された美しいレールをたどるものではない。 ある考えを持っていたり、境遇にあったとしても、十人十色の全く整合性のとれていない行動や思想変化を様々に行っていく。それがある終点に行く事が決まっている「物語」と「人生」の違いだ。 ![]() 漫画・ライトノベルでいう「キャラが一人歩きをする」という現象。 作者の考えをキャラが自由に超えていく漫画・ライトノベル的であるからこそ、 「物語」でない「人間」的な キャラクターの「人生」を描く"可能性"があるのかもしれない。 にほんブログ村 →記事が面白いと思われたら押していただけるとうれしいです。 |